● 祖父のこと

私の祖父・池田縫次郎(ぬいじろう)は船乗りだった。
明治20年に長野県小縣郡別所村(現上田市別所温泉)に生まれ、昭和10年頃、家族と共に東京に移り住んだ。祖父は日本郵船の外国航路貨客船の船員で、無線局長を務めていた。

戦争が始まると民間船が徴用されて祖父も軍属となり、太平洋戦争の終り近く、乗っていた船(太陽丸?だったか)が米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、船と運命を共にした。除籍謄本には、

昭和十九年十月四日午後三時五十分比島方面ニ於イテ戦死

と記録されている。
「ワレシズミツツアリ」が船からの最後の無電で、これを打ったのは祖父であろう、と父が言っていた。

当然私は祖父に会っていない。写真で見る祖父は小柄ながらなかなかのシャルマンで、英語の達者なモダン親父だったらしい。
祖父は国際航路の船員だったから、世界中の港を巡った。自分が行ったことのない国はトルコと××(忘れました)だけだ、と自慢していたそうだ。山に囲まれた信州で生まれ育ったからこそ、海とその向こうに広がる世界に憧れたのだろうな‥

祖父は絵が好きで、長い航海の途上や行った先の港等で気ままに描いていたのだろう、数は少ないがスケッチ画が今も残っている。
絵を見ると、一年の大半を船上で過ごしていた祖父が、どれほど家庭や一家団欒に憧れていたか、が判る。

以下は祖父池田縫次郎の絵です。

















これらの絵を見ると思い出す、ある随筆の一片がある。それは明治の画家・小出楢重の「大切な雰囲気」という作文で、そこには次の様に書かれてある。

 日本にはまだ、全般に行きわたり人間に浸(し)み込んでしまうだけの洋画芸術に、歴史と伝統と雰囲気(ふんいき)が形成されていないが、西洋では、代々の遺伝と雰囲気が人種の中に浸り切り行き渡っている。そこで正道の技術を習得しない素人でも絵をかくと、ともかくもそれらしいものが現れてくるのが不思議である。

 それは徳川時代の普通人があるいは明治時代の奥様が、ちょっと何かの必要から半紙へ絵を描いた時、その人は絵はかけませんといいながらも描いて見ると、その線は直ちに徳川期の線を現し明治の匂(にお)いを表現する。

 私の母がよくらくがきをした。その絵を私は今も二、三枚所持しているが、娘の図にしてもが全くの浮世絵の風格を備えている。  現代の子供の自由画は現代絵画の縮図であり、現代学生美術展なぞ見ると現代諸展覧会に並ぶ日本の画壇の潮流をそのままに反映しているのがよく感得出来る。
祖父の絵にも小出の謂う雰囲気、浮世絵から繋がる明治大正時代の線が良く現れて、その「風格」が備わっている、と思う。




      島津秀峰 画



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